LOGIN実家にも見捨てられたマールトンから、手紙が届いた。
わたくしが殺される原因を作り、二度目の今回も未然に防止できなかったくせに。図々しい。
「イロナ。君のために時間を巻き戻したのだから、私の罪ではないはずだ」
手紙にはそう書かれている。
禁術を使った罪をどう判断するかは、裁判所の権限だ。わたくしの知ったことではない。
「情状酌量の余地があると、訴え出てくれ」
余地……?
罪を犯してしまうのも仕方がないと思える事情――ということよね。
そんなもの、一つも思い浮かばない。
あまりにも自分勝手な内容に、思わず怒りで手に力が入る。
ぐしゃり。手の中で手紙が歪んだ。
そもそも――
婚約者であるわたくしをないがしろにして親友と浮気をしたことを、謝罪するべきではないのか。
けれど、そのようなことは一言も書いていなかった。
一度目のわたくしなら、「わたくしだけが頼りなのね」と喜んで訴え出たかもしれない。そう考えると、わたくしも愚かだったわ。
親に「婚約者と仲良くしなさい」「好かれるように自分を磨きなさい」と言われて、それを疑うことなく実践しようとした。
うまくいかないのは、自分に魅力がないせいだと考えた。婚約者を何よりも優先すれば、いつか振り向いてくれると信じてしまったのだ。
その結果は、ただ我が
「嫌な男」と感じるたびに、自分を叱咤した。彼の機嫌を損ねたのは、自分が至らなかったせいだと反省までした。
いつも冷たくされるからこそ、たまに見せる優しさが嬉しかった。そして「本当は優しい人なんだわ」と、自分に都合のいい婚約者像を作り上げた。
けれど、そんなわたくしはもういない。
時を巻き戻ってから、「支配する愛に囚われた女性たち」という本を読んだ。
――実は、ある人に読めと命じられたのだ。わたくしとマールトンの関係性を見つめ直せ、と。
それは、
その本を読み進めるうちに、ようやく気付いた。
マールトンがやっていることは、精神的に支配し、人を自分の思いどおりにコントロールしようとするやり口だった。そこに愛はなかった。
あのまま結婚していたら、妻ではなく、奴隷のように生きることになっていただろう。
そして、本を読み終えた今だからわかる。
わたくしたちは、ある意味では似た者同士だった。
彼の家では歴史を重んじるあまり、彼を一人の人間として扱っていなかった。ただ、家を存続させるための歯車の一つ。
わたくしの両親は事業の拡大に忙しく、子どもたちの世話は乳母や家庭教師に任せきりだった。
その人たちと家族のような関係が築ければよかったけれど、仕事として接するという態度を崩すことはなかった。
だから、わたくしたち兄妹は愛情に飢えて育ったのだ。
彼は、どこまで我が儘が許されるかを試すように振る舞い、虚勢を張ることで自分を保とうとした。
わたくしは人の世話を焼き、必要とされていると感じることを拠り所にしていた。
一緒にいたら、お互いを不幸にするだけの組み合わせだったと思う。
***
さて、殺人未遂事件の後。
わたくしは
しわくちゃにしてしまったマールトンの手紙も、できるだけ丁寧に伸ばし、読める状態に戻している。
巻き戻りの記憶があるのは、わたくしとマールトン、それから時を巻き戻した魔術師だ。
その魔術師は禁術を行使した疑いで、指名手配されている。だが、肝心の依頼人であるマールトンが、相手の顔を覚えていないため、捜査は難航している。
主犯がマールトン、実行犯は魔術師という構図になるのだが――
魔道具さえ残っていたら、そこに残る魔力の跡を辿ることもできる。ところが、その魔道具ごと姿を消してしまったというのだから、マールトンの間抜けっぷりには呆れるしかない。
そして、わたくしに様々な助言をしてくれたのが、その指名手配中の魔術師というわけだ。
ちなみに、カタリンの屋敷で活躍してくれた魔術師ガーボルと同一人物である。
とてもお世話になった恩もあり、通報しないで現在に至る。
彼は街の治安を守る騎士たちとも親交があり、内部の情報を教えてくれるありがたい存在だ。
その情報も踏まえて、現状を整理してみよう。
カタリンには、おそらく前回の記憶はない。
彼女は妊娠したことで、「一刻も早く結婚しなくては」と焦っていたらしい。妊娠のことは親にも相談していた。
冷静さを失った彼女は、自宅へわたくしを招き、毒殺を試みた。婚約者がいなくなれば、すぐにマールトンと結婚できると考えたのだろう。
彼女の父親は、「森へ散歩に誘い、そこで飲ませろと言っておいたのに」と憤慨しているそうだ。毒を希釈して、効き始める時間を遅らせろという指示も守らなかった、と。
……怒るところが違うでしょう。
子どもに犯罪の手ほどきをする親なんて、まともではない。
新進気鋭の男爵という地位も、どれだけ手を汚して掴んだものやら。考えるだに恐ろしい。
ちなみに、彼女の母親は事情聴取を受けただけで、帰宅を許されている。
ガーボルが、カタリンには前回の記憶がないと推測した理由は、今回もマールトンと結婚しようとしたからだ。子どもの父親はマールトンではなかった。
「もし、成長した子どもの記憶があったら、最初からその男と結婚したはずだ」
「うーん、どうかしら? その相手が平民だったら、危険を承知で貴族のマールトンと結婚しようとするかもしれないわ」
わたくしは自分なりの推測を語る。ようやく手に入れた貴族という立場に、カタリンはひどく執着していたから。
「いや、最有力候補は同級生の別の男らしい。一回目にマールトンが『カタリンと妙に仲良かった男の一人だろう』と言っていたよ」
ガーボルはそう説明した。
貴族学園の同級生なら、貴族ということね。なるほど。
それよりも、わたくしには気になっていることがあった。
前回の記憶を持っているマールトンが、なぜわたくしがカタリンの家へ向かう前に、本気で止めようとしなかったのか。
その疑問を口にすると、ガーボルは少し言いづらそうに咳払いをした。
前回、マールトンがガーボルに話を持ちかけたのは、わたくしが死んでから三年以上も経ってからだった。
その頃には、わたくしがどこで死んだのかさえ、マールトンは覚えていなかったという。図書館で古い新聞を調べればわかったかもしれないのに、そんなことすらしなかった。
当然、使われた毒の種類もわからない。
唯一覚えていたのは、日にちだけ。その日は、マールトンが応援している選手が優勝した翌日だった。
……いかにも、マールトンらしい。
けれど、あまりにもわたくしに無関心すぎる。それを聞いて、さすがに泣きそうになった。
だから当日、彼は「カタリンに近づくな。家へ行くな。食べ物や飲み物には気をつけろ」としか言えなかったのね。
しかも、カタリンが彼の隙を突いてわたくしを連れて行ってしまったため、彼にはわたくしの居場所すらわからなくなった。
結局、わたくしの家で帰りを待つことしかできなかったらしい。
何もかも後手に回り、時間を巻き戻したという大きなアドバンテージさえ活かせない。
……本当に、無能な男だわ。
巻き戻る前も、情報を集めようとしなかった。
巻き戻ってからも積極的に動かず、「なんとかなるさ」と楽観視している。
そんな男が、よくもまあ「愛している」などと手紙に書けたものだ。
あまりにも口先だけだと、嬉しいと思うどころか馬鹿にされているように感じる。
軽々しい言葉一つで動かせると思われているようで……不愉快だ。
巻き戻る前のわたくしなら、その一言だけで小躍りして喜んだでしょう。
けれど、あの本を読んでからというもの、日に日にマールトンの嫌なところばかりが目につくようになった。
今まで目を背け、見ないふりをしていた欠点が、ごまかしようのない現実として突きつけられる。
わたくしの目隠しを外したガーボルを、恨みたくなることもある。
――気付かなければ、わたくしの心は穏やかなままでいられたのに、と。
わたくしは心を麻痺させ、痛みを感じない日々に慣れていた。
だから突然、無理やり目覚めさせられたかのように、怯えたのだ。
けれど、少しずつ自分の心と向き合えるようになった。
そうなれば、浮気者たちに報いを受けさせたくなるのは、ごく自然な流れだった。
さて、殺害当日の話に戻ろう。
今回、マールトンは本当に解毒剤を用意していたらしい。
「全ての毒に効く万能の解毒剤なんか、存在しませんよね? もし効かなかったら、わたくしが死んでいくのを眺めているつもりだったのかしら」
本当にいい加減な男だ。ぞっとしないわ。
「助けに行く俺、格好いい」とでも思っていたのだろうか。
結局、マールトンは何の役にも立っていない。
それほど興味のない女を生き返らせて、幸せな未来を思い描けたのだろうか?
一度目だって、カタリンと離婚すれば済む話だったでしょうに。
「彼は全てにおいて、そんな調子だった。なんとなくのイメージだけで動いてるんだ。時を戻す依頼を受けてから数ヶ月、打ち合わせの度に苛立ったよ」
ガーボルは
「古文書を読むのに時間がかかっていることを、無能だと罵られた。自分たちが継承を怠って、先祖が残したものを読めなくなったことを棚に上げてね」
もしかしたらガーボルは、その意趣返しもあって、わたくしに協力してくれているのかもしれない。
マールトンの性格の悪さに、わたくしは救われたということね。
前回、カタリンはマールトンと結婚し、子どもが生まれたときには早産だと言い張ったらしい。
つまり、わたくしが死んですぐに二人は結婚したのだ。
……まあ、そのために毒殺したのだから、当然と言えば当然か。
そして、贅沢がしたいだけのカタリンは、ヘーデルヴァーリ家の財政を傾けていった。
子どもが成長するにつれ、マールトンは違和感を覚えたという。
自分に似ていないのだ。顔立ちも、髪や目の色も。
そんな時にカタリンが「イロナを殺した」と口を滑らせた。
それを聞いたマールトンは、人生をやり直そうと決意したらしい。
前回の世界では、わたくしの死は「婚約者の心変わりを知り、当てつけに自殺した」とされたそうだ。
……あんまりだわ。
あんな男への恋に絶望して、自ら命を断ったと思われたなんて。
確かに、浮気を知ったら深く傷ついて、寝込んだかもしれない。
けれど、当てつけで死ぬような真似などするものですか。
一度目の世界の両親は、どう思っただろう。
「当てつけ自殺」と聞いて、わたくしを責めたかしら。
それとも、なぜ相談してくれなかったのかと、自分たちを責め続けただろうか。
子どもの頃から、互いに話し合う時間などなかった。だからこそ、重要なことを相談できなかったと気付いて、反省してほしい。
けれど、もし、「相談しなかったのも悪い」と、わたくしを責めたのなら……許さないわ。
――いえ、もういい。
両親との距離を、今さら縮めようとは思わない。
今回、少しだけ協力してもらえた。そんなふうに、たまに手を貸し合う関係で充分だ。
ガーボルと協力関係を結び、作戦を練っていくことが、わたくしにはとても新鮮な体験だった。
相談して、考えて、力を合わせて、一つのことを成し遂げる。
誰とでも、そういう関係を築けるわけではない。
きっと、それを「相性」と呼ぶのだろう。
……そうそう、「当てつけ自殺」の話だったわね。
殺される直前まで、二人がお互いに「恋愛感情などない、友達だ」と言うのを信じていた。
もし、あの時すべてを知っていたら、婚約を解消したかもしれない。
「親友だから譲って」とか「お腹の子どもから父親を奪わないで」とか言われたら……。
以前のわたくしなら、断れなかった気がする。
わたくしさえ我慢すればいいのだ、と。
もう、そんな自己犠牲はしないと心に誓う。
それから、前回はおそらく、カタリンの父親が精神干渉のブレスレットで情報を操作し、周囲に「当てつけ自殺」と思わせたのだろうという。
今回は捕まって、本当によかった。
あんな危険な人を野放しにしてはいけないわ。
それなのに、こんな状況の中で、頼んでもいないのに「生き返らせた恩を返せ」と言われても……ねぇ。
そもそも、マールトンが浮気して、わたくしが殺される原因を作ったのだ。
カタリンを追い詰めたのは自分だと、彼は理解しているのかしら。
あの程度の誘惑に抗えないなら、どんな詐欺や誘惑に引っかかるかわかったものではない。
そんな男を人生の伴侶にするなんて。
心の底から、マールトンとの結婚なんかお断りだわ。
最後に、ガーボルに時間を巻き戻す代償があるのかと尋ねた。
マールトンの家に伝わる、門外不出の古代の魔道具を使って巻き戻したそうだ。
その魔道具にヘーデルヴァーリ家の血筋の者の血を注ぎ、その寿命を代償として起動する。つまり、マールトンの寿命は、その分短くなっているらしい。
それを、マールトンは「感謝しろ」と手紙に書いてきた。
もう一度言います。そんなこと、頼んでいません。
学園の卒業が近づいてきた。卒業と同時に結婚する同級生たちもいる。楽しそうに未来を語る様子を見ていると、マールトンとの婚約が続いていたら、自分もあの輪の中にいただろうか――そんなことを考えた。けれど――と、すぐに首を振る。いや、もしそうだったとしても、楽しくはなかっただろう。カタリンがそばにいたら、何かと邪魔されて、人の輪に入ることさえできなかったに違いない。結婚する予定がないということに、ほんの少し寂しさを覚えただけだ。だから、彼との婚約がなくなった今の方が、ずっと幸せなのだと再認識する。そんな気持ちは口にせず、事件のあとにできた友達と卒業試験の話をする。目の前のことに集中しよう。一回目には断ち切られてしまったわたくしの未来が、これからも続いていくのだから。そんなある日のことだった。「明日は来客があるから、イロナは外出しないように」夕食の席で、父がそう言った。「どなたがいらっしゃいますの?」普段なら母が尋ねるところだが、何も言わないので、わたくしが父に質問した。「明日になればわかるよ」思わせぶりな口調だった。父の表情を見る限り、悪い話ではなさそうだ。そんなふうに呑気に構えていたわたくしは、翌日、花束を抱えて訪ねてきたガーボルを見て、目を丸くすることになった。「嘘……何、それ」「求婚しに来ました」驚いて何も言えずに立ち尽くすわたくしを見て、父が苦笑いした。「おほん。ガーボル・ヴェレシュ卿。そのような紹介は私の役目ですし、今日はあくまで見合いです。いささか気が早いかと」ガーボルは真っ赤になり、父に謝罪した。「え? 卿って……?」話を聞けば、わたくしとお見合いするため、この半年ほどで魔術爵を得ようと頑張っていたという。だから、連絡をする暇もなかったのね。そう知らされて、嬉しいという気持ちはある。けれど、それ以上に、どう表現していいかわからない感情で、ぐちゃぐちゃになっていく。二回目の人生が始まった一か月間は、怒る出来事がある程度予想できた。けれど、それも事件を乗り越える時点まで。その先は、何が起こるのかわたくしにはわからない。みんなと同じように、「まだ見ぬ日々」を生きていく。ただ、それだけだのことなのに。怖くて堪らなかった。そんな気持ちを、事情を知っているガーボルに聞いてほしかった。一緒に悩んで、一緒
わたくし、イロナは二年生まではマールトンの婚約者として、いじけた日々を送っていた。カタリンには、いつから憎まれていたのだろう。彼女がマールトンを好きになる前からか。それとも、好きになったから、わたくしが邪魔になったのか。考えても答えは出ない。婚約者だったマールトンに嫌味を言われたり、無視されたりするのは辛かった。何をしても否定されているような気がして、どんどん自信がなくなっていった。いつの間にか、気が緩むと背中を丸めがちになり、廊下を歩くのも気が重くなっていた。教室でわたくしの名前が出ると、何か失敗したのか、また笑われるのかと身構える。そんな中で、カタリンが笑顔で話しかけてくれるのが救いだった。友達って、ありがたいなと心の底から感謝していた。けれど、それもわたくしを貶める前振りのようなものだった。親切そうな言葉で、わたくしに恥をかかせる。カタリンは心配そうな声を出し、他の人たちがクスクス笑う。わたくしは笑って誤魔化すことしかできなかった。自分でも、笑顔がぎこちなくなっていくのを、心の隅で自覚していた。認めたくなくて、見ない振りをしていた気持ちを……。そして、三年生の始めに毒殺未遂。いいえ。前回は、未遂ではなく、そこで人生が終わってしまった。今回は違う。ガーボルの手を借りて、わたくしは生き残った。殺されるという恐怖と、未来を覆そうとしている緊張感。手探りの中、一緒に考えてくれる人がいる頼もしさ。あの一か月は、今までの人生で一番濃い時間だった。あの高揚感は、今後の人生でも二度と味わえないかもしれない。危機が去ってしまえば、あの夜も眠れないほどの不安も、いつかは思い出に変わる。そう思っていたのに、何か物足りない。達成感のあとの虚脱――それもあるだろう。だが、それ以上に、ガーボルと「回避できて良かった」と喜びを分かち合いたい。そう思ってしまった。けれど、事件の直後は、詮索されないために連絡を控えていた。時を戻すという禁術を行使した魔術師が、ガーボルだと知られてはいけないから。そして、事件から一か月。捜査が一段落した頃に、ちょうど魔道具の具合が悪くなったのでガーボルを呼び出した。応接室に彼が修理道具を抱えて入ってきた瞬間。どれほどほっとしたことか。歓喜の表情を押し殺すことが、難しかった。人目がなければ
イロナが最近変わった?生意気にも、頼んだ課題をやらなかった。そのせいで、マールトンと一緒に先生に叱られたじゃない。まったく、ふざけてる。それに、マールトンに何か言いたげに、おどおどしていたのも……ちょっと変わった気がする。以前なら、縋るような目で彼をみていたのに。今は違う。まるで「話しかけるな」と言わんばかりの雰囲気を出している。どういうこと?でも、幸いにして気のせいだったみたい。数日で、元のイロナに戻った。資料集めを頼めばやってくれたし、イロナが読みかけていた小説も先に読ませてくれた。私はちゃんと本を返すんだから、問題ないわよね。「友達のいないあなたと、一緒に行動してあげる」そう言って、マールトンと一緒にいられないときだけ、そばにいてあげる。いつも通り。ただ、最近はマールトンの方がイロナと接触しようとしている。不愉快だわ。結局、学園に通って基本のマナーを教わったところで、貴族社会では通用しない。圧倒的に足りないのだ。何か失敗すれば笑われて「あら、それは常識以前のことかと思っていたの。言葉が足りなくて、ごめんなさいね。では説明するわ」なんて、親切そうに微笑まれる。あれはもう、辱めでしかない。貴族たちには暗黙の了解が多すぎる。たまに生粋の令嬢でさえ「それは知りませんでしたわ」なんて言っているのだから、果てしない世界なのだ。どうしたらいいの?そんなことを考えた末に、私はひとつの答えを出した。私に逆らえない人たちを作るしかない。その上に立ってしまえば、少しは息がつける。手段なんか、選んでいられないでしょう?そう考えたら、早々にイロナを確保したのは我ながら英断だった。課題も、資料集めも、わからないことは彼女に聞けばいい。失敗はさりげなく彼女のせいにして。そして、陰からさりげなく手を貸してくれる男子を何人か確保した。これで、悠々自適な生活が手に入って。――そう思っていたのに。生理が来ない。最初は、明日には来るかもと思っていた。ちょっと遅れているだけ。それで一週間。あっという間に、二週間。さすがに、本格的にヤバイ気がしてきた。父親が誰なのか、わからない。一番爵位が高いのがマールトンだ。他の男たちは、彼がいつまでも経ってもイロナと婚約解消してくれないから、遊んだだけ。だから――マールトンと
初めてイロナに会ったとき、ぼんやりした子だと思った。学園に入学したものの、成り上がりというだけで、私を見下す貴族ばかり。そんな中で、イロナは見るからに人が良さそうだった。利用できると思って、友達になった。彼女を貴族社会に引き戻そうとする女の子たちは、当然蹴散らした。そのイロナの婚約者が伯爵家の令息だという。いいじゃない。奪い取ってやる。そう思った。そのマールトンと仲良くなってみると、イロナにノートを借りたり、課題を手伝ってもらったりしている。「じゃあ、ついでに私の分も」なんて頼んでみたら、あっさり引き受けてくれた。驚いたわ。イロナをのけ者にして、マールトンと二人で行動することを徐々に増やしていく。堂々と二人で登下校したり、昼食のときに、わざとイロナがわからない話題で盛り上がったり。それだけで、不思議と気分が浮き立った。初めのうちは、イロナに嫌われないよう、さじ加減に注意を払っていた。けれど、鈍い彼女は少しも疑わない。そうすると、気を遣っているのが馬鹿らしくなってきた。そうしたら、「距離が近すぎる」とイロナに注意された。気がつくのが遅すぎる。そのときに、私たちがそろって不機嫌になったら、イロナはすぐに意見を撤回した。そんなことなら最初から言わなければいいのに。「もう、イロナを無視してやったらどう?」「ああ。そうしたら、自分が出しゃばったことを反省するか。大人しくなって、いいかもな」マールトンは、イロナよりも私といる時の方がずっと楽しそだった。「これはいける」――そう確信した。それなのに、彼は手を出してこない。出会ってから二年も経つというのに、貴族はお行儀がいい。年頃の男なのに、妙に堅物だった。男女の仲にさえなってしまえば、あとは簡単。そう思って、最初は少し強引に関係を持った。これで、マールトンは私のもの――そう思った。それなのに、マールトンはいつまで経ってもイロナとの婚約を解消しようとしなかった。「婚約というのは、そんなに簡単に解消できないんだよ」そう言いながらも、マールトンは私を抱く。私はマールトンが初めてだったけど、一度体を開いてしまえばあとは気楽なもの。マールトンが煮え切らない苛立ちを、ほかの生徒で埋めていくことにした。「はしたない」と私を批判しながらも、男たちの視線は胸に釘付けになっている。
今日、春期大競馬会が開催される。わたくしは、とても落ち着いてはいられなかった。きっと、マールトンが応援している騎手が優勝する。そうなれば――明日は、前回のわたくしが毒殺された日だ。授業を受けていても、まったく頭に入らない。授業が終わって馬車に乗り込むと、座席にはひしゃげた造花が置かれていた。魔術師ガーボルと初めて会った日に、彼が持って来た「色とりどりの花が咲く」魔道具だ。「魔道具を持って来てくれてありがとう。修理してもらいたいから、お店に寄ってくれる?」わたくしは平静を装いながら、御者にそう指示を出した。「ですが、あの辺りは馬車で入れませんよ」「フードを被っていくわ。少し待っていて」大通りで馬車を降り、わたくしは路地へ足を踏み入れた。こんな場所を歩くのは初めてだ。心臓がばくばくと音を立て、全身の血が熱くなるのを感じた。目的の店には、薄汚れた小さな看板が揺れている。窓ガラスは曇り、壁には苔が貼り付いていた。間違いないはずなのに、扉を叩くだけで勇気がいる。けれど、このまま立ち尽くしているのも恥ずかしい。思い切って、扉を叩いた。顔に熱が集まる気がする。心の中では「た、叩いてしまったわ」と、もう一人のわたくしがいるかのように、はしゃぎ回っていた。ところが、反応がない。もう一度、今度は強めに叩いた。カチャ。ドアノブが動く音がした。「え? イロナ様?」ガーボルが驚いた顔を見せた。初めて会ったときのようにだらしない姿ではないけれど、最近見慣れた爽やかな姿とも違う。シャツは少しよれていた。「嬉しいけど、人に見られたら……」「魔道具を壊して持って来ただけの、ただの客よ」わたくしは抱えていた魔道具を差し出した。「そ、そっか。じゃあ、そこに座って」ガーボルは背もたれのないスツールを勧めてくれた。「……不安になっちゃった?」ガーボルは手早く修理を進めながら、穏やかに話しかけてくれる。「そうなの。ごめんなさいね。明日の打ち合わせはもう終わっているのに……」そう、迎え撃つ準備は整っていた。マールトンの部屋に毒の材料を仕込んである。わたくしはただ心細いだけなのだ。カタリンにも今まで通りに接するよう心がけてきた。前回と同じように、優しげに聞こえるけれど、よく考えてみれば棘を含んだ言葉に耐え続けた。カタリンの苛立ち
時を巻き戻せた。学園でカタリンと出会う前まで戻れることを期待していたが、実際にはイロナが死ぬ一か月前だった。仕方ない。たった一月だが、生前に戻れたのだ。そう考えたところで、嫌な可能性に思い至った。もし巻き戻った先がイロナの死後だったら――背筋が冷たくなった。イロナが亡くなってから、時を巻き戻そうと思いつくまでに三年以上もの時が経っていたのだ。……危なかった。思わず冷や汗が出る。あの魔術師め。まあ、こうして生きているイロナに会えるのだから、文句を言っても仕方がない。これから先のことを考えよう。さて。この頃の俺は、カタリンと蜜月の関係になり、イロナを邪険に扱っていた。もっと前まで戻れていたら、普通に接することもできたのに……。今さら急に態度を変えるのも格好がつかない。しかし、久しぶりに学園に行くのは、少し楽しみだ。当時の勉強は面倒だったが、出された課題をこなせばすむ、ある意味では気楽な時代だった。卒業して家業を継ぐ勉強に入ると、正解のない問題ばかり突きつけられる。考えても答えが見つからず、父上も正解を知らないようだった。終わりが見えず、疲労感が果てしない。……まあ、俺が継ぐのはまだ先だ。真面目なイロナと、その実家の銀山があれば、俺の代になったら楽にやっていけるだろう。イロナなら、カタリンのように散財しないだろう。家計の心配をしなくて済むだけでも、気が楽だ。……おや?乗り込んだ馬車が、学園とは違う方向へ進んでいる。「おい。どこへ向かっているんだ?」御者に声をかけると、不思議そうな声が返ってきた。「はい? いつもどおりカタリン・ヴァッシュ様のお屋敷ですが」「……そうか」ああ、そうだった。この頃の俺は、婚約者のイロナではなく、カタリンと登下校していたのだった。今思えば、おかしなことをしていたものだ。これを機に、イロナと登下校するように変えたらどうだろう。きっと彼女は目を潤ませて喜ぶはずだ。だが、そのためにはカタリンを説得しなければいけない。そんなことを考え事をしているうちに、馬車はカタリンの屋敷へ到着した。「マールトン。おはよう」カタリンは馬車に乗り込むなり、さっそく俺の腕に絡みついてきた。柔らかな胸が腕に当たる。そうそう。行き帰りの馬車は、こうでなければ。登下校はこのままでいいだろう、うん。教室